2025/06/10
昭和大好きかるた 時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る 第29回「へ」
時代を超えた普遍の良き「何か」を振り返る
第29回
へ
ベース
令和となってはや幾年。平成生まれの人たちが社会の中枢を担い出すようになった今、「昭和」はもはや教科書の中で語られる歴史上の時代となりつつある。
でも、昭和にだってたくさんの楽しいことやワクワクさせるようなことがあった。そんな時代に生まれ育ったふたりのもの書きが、昭和100年の今、"あの頃"を懐かしむ連載。
第29回は、刃物専門編集者の服部夏生がお送りします。
小学校に上がる前のある日、僕はバイオリン教室に体験入学した。
自分の意志ではない。我が子にクラシック音楽の素養をと目論んだ母親が勝手に決めたのである。
最悪だった。
まるで勝手がわからず音すら出せない僕のことを教師はあざ笑った。そして、一緒に行った友だち(経験が幾分かあった)だけに指導を始めて、最後は僕を見ることすらしなかった。あまりにも悔しくて帰る道中、僕は号泣し、二度と行かないと訴えた。
自分は音痴かつ不器用である。
事実であり、仕方ないことだ。でも、それを暴力的に思い知らされたことが、ものすごく嫌だった。その経験はわりと尾を引いて、以来、学校の授業以外では歌ったり楽器演奏をしたいと思うことはなかった。
ハタチを超えて耳にした「バンドやろうぜ!!」
話は一気に、大学時代に進む。
諸事情で留年して鬱々としていた僕に、サークルの先輩・ヒロオカさんが声をかけてきた。
「ハットリ、バンドやろうよ」
聞けば、彼はブルースロックを聴き出してのめり込んだという。オレもやりたい、一緒に始めよう。
ハタチ過ぎてロック聴いたんすか。ていうか今さらバンドやろうぜっすか。
遠慮のないツッコミにも動じることなく、彼は話を続けた。
「今、暇でしょ」
まあ、そうっすね。勢いに押されて思わず答えると彼は、そうか。じゃオレはボーカル兼ギターやるから、ベースやってよ、オレのジャズベ譲るから。他のパートはアテがあるんだ、と猛烈な速度で話をまとめて、じゃオレ実験あるからと去っていった(彼は院生だったのである)。
一人部室に残されると、子ども時代の苦い思い出が蘇ってきた。やっぱやりたくねえと思ったが、神と崇めていたパンクロッカー、ジョン・ライドンが語った一節が頭に浮かんだ。
「PILをはじめる時にさ、仲間のウォブルを誘ったんだ。あいつ楽器触ったことなかったけど、ベースならなんとかなるだろって」(意訳です)
詳しく語ると10万字を要するので割愛するが、このジャー・ウォブルって人物、マジで変てこなベースを弾くのである。控えめに言って上手じゃない。だが、ライドンの鶴が首を絞められたような声にばっちりハマり、バンドとして聴くと超絶カッコよかった。
そうだよな、今からはじめても遅くねえ。下手でもいい。でも、やるならどう笑われようとちゃんとやろう。ハタチ過ぎて留年までして何やってんだ、という話だが、僕はそうやってベースを弾くことになった。

さらに時が過ぎた今、僕が著名ベーシストとして活躍していれば、この話は映画化間違いなし、全米が泣くのもやむなしの美談となるかもしれない。
だが、現実は甘くない。
ベース係を引き受けたのは、ライドン神が言うように、弦が4本しかないから指先が不器用なオレでもなんとかなるだろう、いざとなればルート音を梵鐘みたく鳴らせばいいから音感のないオレでもなんとかなるだろう、というなめくさった理由もあったのだが、その思惑は初日で打ち砕かれた。
それでも挫けず練習とかしているうちに「今、弾くべき音」は、ほんの少し分かるような気がしてきた。でも、これはというベーシストたちのフレーズは、CDを100回連続で再生してもコピーできなかった。音だけでない、なぜその休符を出しているのかが理解できないのだ。無理やり真似ると、どれだけ低音を強調しても輪ゴムを弾いたような音しか出なかった。
不器用で音痴。それに甘んじて決定的なことから目を逸らしていると気づいた。
オレ、センスねーわ。
ウォブルは(あと実はライドンも)下手だったかもしれない。
その代わり圧倒的なセンスの良さ、さらに言えば、音楽に躊躇なく身を捧げられる愛に支えられたそれを持っていた。
愛とセンスは、人の心を震わせるものを生み出すために、絶対に必要なものである。
どちらも欠けてはならない。
でも、後者を持っていない人は、どうやっても、持つことができない。
たかが1年足らずで語る内容ではない。厚顔無恥の極みだし、もっと真剣に音楽に立ち向かった経験のある人たちからすれば、噴飯物の話でもある。
でもとにかく、僕はそう思った。
嬉しくはなかったが、満足感はあった。
自分でやると決めたから、現実を知って納得できた。OK余裕、次へ進もう。そう思えた。
全てのミュージシャンに花束を
お互いに社会人になってからのことである。
僕が初めての著作を世に出した時、読んだよ、とヒロオカさんは突然に電話をかけてきた。お礼を言うか言わないかのタイミングで、彼はこう言い放った。
「ハットリらしい文章だよな。なんでもややこしくして。もっとシュッと書きなよ」
くだくだ書くのがオレの文体なの、黙って侘び寂びを味わいな。憤慨しながら、僕はかつての盟友からの正直な感想が嬉しくて仕方なかった。
ねえ、あの時あんたが誘ってくれたから、オレはやることが定まったんすよ。そう伝えたかったけど、え、もっとわかりやすく喋って、と言われる気がして、やめた。
「オレさ、今、ゴスペルやってんだ」
タフな仕事に従事する傍ら、ロックのルーツへとぐんぐん向かう。そのまっすぐさを羨ましく思いながら、僕は電話を切った。きっと、今も元気でやっていると思う。

暴力的に自らの運命を知らされたり、決められたりする理不尽は、世界を見渡せばいくらでも存在している。だからこそ、音楽でもなんでも、意思ありきで立ち向かい、限界を知ることができる「日常」は何にも増して尊いし、大人が守り続けるべきものだと思う。
ライドンたちが切り拓いたロンドンパンクが輝いたのは、1970年代後半のほんの一瞬だった。でも、その影響を受けた日本のミュージシャンたちは、昭和終わりからのバンドブームを生み出した。そして、技の上手さのみを至高とし、子どもの挑戦をあざ笑う「常識」をぶっ飛ばしてくれた。
若くたって年喰ってたって、やりたきゃやろうぜ。
そう教えてくれた彼らとヒロオカさんに、僕は感謝しているのだ。
ベース弾き チョッパーやる奴 威張りがち
TEXT:服部夏生
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