2025/10/04
【NEW】ちょっとヘンな銃器たち21 ウォルチ タンデムローディングリボルバー

リボルバーの普及が始まり、それまで単発が基本であったパーカッション式ピストルは5、または6連発に進化した。しかし、一部の銃器設計者は、この数に満足することなく、更なる装弾数の増大を試みる。そのひとつがこのウォルチ リボルバーだ。
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連発銃時代の始まり
アメリカのSamuel Colt(サミュエル・コルト:1814-1862)がパターソンリボルバーを考案し、これを持って連発式パーカッションリボルバーの時代が始まっている。
それ以前にも、連発式の銃はいくつも存在していた。しかし、その多くは発射する数だけのバレルを束ねた、いわゆる合束式と呼ばれる形式のものがほとんどだった。何しろ求める発射数だけのバレルを束にすればよいだけなので、この形式の銃は容易に作ることができた。
しかし、当時も今も、銃の中でバレルがその重量の多くの部分を占めている。バレルを複数束ねて多数の銃弾を射撃できるようにすると、急速にその銃の重量が増大し、持ち運ぶことが困難になっていく。長銃の場合は特に重くなるし、小型のピストルでもそれは同様だ。
それでもリボルバーが普及する直前まで、この合束式は連発銃の主流を占め、とくにイギリスではペッパーボックスと総称されるリング状にバレルを並べて束にし、これを手で回転させて次々に連射する連発式小型ピストルが多数生産されていた。
この合束式ピストルに対し、リボルバーはバレルを1本だけ装備し、その後端に連発数に応じた薬室を束ねたシリンダーと呼ばれる部品を組み込むという形式で、これを回転させて連射する。そのため従来の合束式ピストルと比べて、その重量を劇的に軽減させることができた。
よくサミュエル・コルトがリボルバーを発明したといわれるが、これは誤りだ。コルト以前にも束ねたチェンバー(薬室)を備えた連発式銃器はすでに複数存在している。サミュエル・コルトがパーカッションリボルバーを発表する以前にあったもののひとつがCollier Flintlock Revolvers(コリアーフリントロックリボルバー:ライフル&ピストル)だ。
さらに時代をさかのぼると中世の火縄式ライフルに回転式チェンバーを備えたものがあり、その現物は現在もニュールンベルグのドイツ博物館に保存されている。
では、サミュエル・コルトが発明したのは何だったのか。それはリボルバーそのものではなく、ハンマーを起こすことで自動的にシリンダーを回転させるというメカニズムだった。
若いころのサミュエル・コルトは、大西洋を高速で航行してヨーロッパ(主にイギリス)とアメリカの物流を支えたスクーナー船の船員として働いていた。彼はこの航海の最中に、スクーナー船の帆布のロープを巻き取り、その逆転を防ぐロックレバーに注目した。
このレバーは歯車に食い込んで逆転を防ぐものだったが、これを応用すれば、歯車を回転させることができる事と思いついたといわれている。これが後のハンマーを起こすことで自動的にシリンダーを回転させるメカニズムに発展した。歯車はシリンダーラチェットとなり、逆転防止レバーがハンマーに装備されたシリンダーハンドに変化したわけだ。
但し、サミュエル・コルトはパターソンリボルバーを発表したものの、それを商業レベルに乗せることに失敗した。それでも、パターソンリボルバーはテキサスレンジャーのサミュエル・ウォーカー(Samuel Walker:1817-1847)大尉にその価値を見出され、これがきっかけで強力な.44口径の軍用ウォーカーリボルバーを生み出した。ここから、パーカッションリボルバーの時代が始まるのだ。
ところがこのウォーカーリボルバーは約2㎏もの重量があった。重過ぎたため、.44口径のままこれを小型・軽量化させたドラグーンリボルバーが開発されることになる。
それでも当時の多くの開拓者たちが求めていた護身用ピストルとしてはまだ大きく、かつ重過ぎた。そこで小型で軽量な.31口径のベビードラグーンや、.36口径のネービーが登場する。特にコルトネービーは完成度の高い製品で、のちに多くのガンメーカーがこのリボルバーをベースにしたコピー製品を製造した。
タンデムローディング
しかし、リボルバーには大きな壁があった。それは装填できる弾薬数だ。実用的な口径で取扱いしやすい大きさのリボルバーを設計すると、装填できる弾薬数は大体5-7発に留まる。それ以上の弾薬を装填できるように設計すると、シリンダー部分の直径が大きくなり、リボルバーの上下幅と左右の幅が共に大きくなって扱い難くなる。
この欠点に向き合い、リボルバーに装填できる弾薬数を増やすという課題に挑んだ銃砲設計者達がいた。1850年代にニューヨークに住んでいたジョン・ウォルチ(John Walch)もそういった銃砲開発技術者の一人だった。
彼はリボルバーのシリンダーに、直列で複数の弾丸と発射薬を装填するタンデムローディングと呼ばれる手法を用いて、装填弾薬数を増大させることを試みた。tandem(タンデム)とは、“2つのものが連結された状態”や、“連続して配置された状態”を意味する言葉だ。具体的には、一つのシリンダーチェンバーに前後2つの弾丸、発射火薬、そして雷管をセットするというもので、これは現代の薬莢式弾薬では考えられない手法だ。しかし、弾丸、発射火薬、雷管を別個に装填するマズルローディングの時代でなら可能であった。
タンデムローディング自体は彼の発明ではない。この装填方式でピストルを連発にするアイディアは、すでにフリントロック時代の単身ピストルで複数の試みがおこなわれていた。ただこの装填方式にはいくつかの欠点がある。その最大の欠点が弾薬が引火する可能性があるという問題だった。
タンデムローディングでは当然のことながら前方に装填された弾丸から発射し、徐々に後ろの弾丸の発射に移動させていく。しかし現実には、前の弾丸が発射されるときに発生する高温・高圧の発射ガスが、次に発射する予定の弾丸とバレルの隙間から次の発射薬に引火してしまう事故を確実に防ぐことが難しかった。この事故が起こると、バレル、またはシリンダーが高圧に耐え切れず破裂して、射手を負傷させ、最悪の場合は死亡させてしまう。
ジョン・ウォルチのパテントの案件は、リボルバーのシリンダーにタンデムローディング装填方式を持ち込みつつ、タンデムローディング方式につきものの、次の弾薬への引火を防ぐ方法に関するものだった。
彼の発案した引火を防ぐ方法は、弾丸の構造にある。前後に長い鉛製の弾丸の中央部には、かなり深い溝が刻まれており、この溝に油1/4、石鹸3/4の混合物を詰めて、これをシール材として使用して引火を防ぎ、同時に射撃する際にこのシール材の混合物が、バレルのクリーニングを自動的におこなうという一石二鳥を狙ったものだ。
ジョン・ウォルチは、このシリンダーにタンデム装填するリボルバーとシール材を組み込んだ弾丸の発明で、アメリカパテント#22,906を1859年2月8日に取得した。また海外では同じ案件でイギリスのパテントも取得している。
いずれのパテントにも、異なる外見と構造を備えた2機種のリボルバーの図面が添付されていた。
一つはシリンダー後端とシリンダーの中央部の二ヵ所に、6個ずつの雷管を装着するニップルを装備している。ハンマーは並列で2つあり、一つのハンマーは後ろ端の雷管を、もう一つのハンマーはシリンダー中央の雷管を打撃して撃発する。
もう一つも、やはり並列した2個のハンマーが装備されており、シリンダーの後部に12個のニップルが装備されている。前方に装填された弾薬のために、シリンダー後ろ面のニップルからは長い導火孔がシリンダーの側面内部に設けられた。この方式により、このリボルバーはハンマーやリボルバー全体の外見がよりすっきりとしたものになっている。
アメリカのウォルチ リボルバーの研究家のサム・E・スミス(Sam E. Smith)は、前者のリボルバーはウォルチが設計しただけで、知られている限りでは現実に製造されなかったと記述している。
しかし、この記述は間違っているというのがリポーターの認識だ。かつてリポーターがアメリカのスミソニアン博物館で研究を許されていた時、このパテントに記載添付されているウォルチ リボルバーとほぼ同型のサンプルを博物館の武器庫で発見し、実際に手に取り撮影しているのだ。そのため、このリボルバーは、発明者の設計図面上だけでなく、実際に実機が製作されていたと判断している。だが、おそらくその製作数は数挺、あるいは1挺だけだったかもしれない。
後者のパテントに記載されている、よりすっきりとした外見を備えたリボルバーは、のちにウォルチ ネービーとして生産されたものの原型となった。
ウォルチ ネービーと名付けられてはいても、これはアメリカ海軍の制式ピストルに採用されたことはない。この名前が付けられた理由は、単にその口径がアメリカ海軍が採用していた.36口径であったからにすぎず、販売代理店が勝手につけたモデル名だ。
1860年、ウォルチのリボルバーの代理店だったニューヨーク・ブロードウェーのJoseph Merwin(ジョセフ・メルウィン)はシンプルにウォルチの12連発リボルバー“Walsh 12-Shot “Navy” Revolverの名前で販売した。
アメリカパテント取得後ジョン・ウォルチは、このピストルの生産に乗り出す。とはいえジョン・ウォルチは銃器設計をおこなう技術者に過ぎず、生産工場を持っていなかった。そこで、彼は、コネチカット州ノーガタック (Naugatuck, CT)にあったユニオンナイフ(UNION KNIFE Co.)で彼のリボルバーを生産させることにした。
このときアメリカは、南北戦争突入前夜で銃砲産業は忙しかったはずだ。とりあえず銃の恰好をしていれば、飛ぶように売れただろう。にもかかわらず、ウォルチ 12連発ネービーリボルバーは成功作にはならなかった。
その理由は、製造メーカーとなったユニオンナイフの銃砲製造キャパシティの問題と、製造のための資金調達に問題があったからだ。彼の本拠地ニューヨークは北軍(ユニオン)に属する地域であったが、同様に北軍地域に属するコネチカット州やイリノイ州には多数の銃砲メーカーがあり、それらの製造する銃の方がずっとシンプルで、かつ量産体制を整え、大量の銃器を供給したのだ。
そのため、ウォルチのリボルバーは北軍に採用されることなく終わった。戦争ではより単純で誤操作や誤用の心配のない武器が優先される。たとえ連発数が多くても、専用の弾丸を必要とし、その操作が煩雑な武器は敬遠される。そして何より構造が複雑で製造に手間がかかる武器は戦時の大量生産に不向きだった。
ウォルチ ネービーと名付けられたリボルバーは、南北戦争という大きな需要があったにもかかわらず、結局約200挺程度が製造された段階で生産打ち切りとなってしまった。


