2025年11月号

2025/10/09

【NEW】無可動実銃に見る20世紀の小火器 MG42

 

第一次大戦の経験から、ドイツ陸軍兵器局ヘーレスヴァッフェンアムトは汎用マシンガンを求め、これに適合するMG34が誕生した。そしてより信頼性を高めつつ、高機能かつ大幅な量産対応を可能とするMG42が開発されていく。19世紀末から第二次大戦までドイツのマシンガン開発の歴史を辿ってみた。

 

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▲▼MG42  シュタイヤーダイムラー1943年製造

 

マキシム マシンガンの普及

 マキシムマシンガンは1884年にHiram Stevens Maxim(ハイラム・スティーブンス・マキシム:1840-1916)によって開発された世界最初のフルオートマティックマシンガンだ。それ以前にもGatling Gun(ガトリングガン)やMitrailleuse(ミトラィユーズ)、Gardner Gun(ガードナーガン)などの手動式マシンガンは存在したが、マキシムの銃はリコイルオペレーテッドによる全自動射撃が可能であることが大きく異なっている。
ハイラム・マキシムはAlbert Vickers(アルバート・ヴィッカース)の支援を受け、英国でMaxim Gun Companyを設立、マシンガンの試作を繰り返し、そのデモンストレーションを複数の国の軍隊に対して展開していった。
 マキシムマシンガンが戦闘に使用された最初の例は、1888年11月21日、西アフリカの英国領シエラレオネにおけるもので、英国から派遣された小規模な懲罰部隊が現地で破壊活動をおこなう部族を攻撃、これを殲滅している。この時点ではまだ英国はマキシムマシンガンを採用しておらず、これは公式な装備ではなかった。
 ドイツは英国軍以外でこのマキシムマシンガンを実戦に投入した最初の国だ。ドイツ領東アフリカで発生したアブシリの反乱の鎮圧にビスマルクが派遣した部隊は、1889年5月8日に1挺のマキシムマシンガンを用いて、反乱軍を攻撃、その拠点であるパンガニの制圧に成功している。
 1889年、英国軍はマキシムマシンガンを採用し、主に植民地駐留軍がこれを活用した。そのひとつがマタベレ戦争(1893-1894)で、この時は4挺のマキシムマシンガンを装備した50名の英国植民地軍が、5,000人の敵と戦い、これに勝利している。同様の事例は多くの植民地で展開され、いくつもの実績を挙げたが、その多くは現地民の兵士を相手にした戦いであり、その火力で相手を圧倒した形だ。
 1892年、ドイツ海軍は7.92×57mm口径のマキシムマシンガンの採用を決め、ドイツはその国産化に動き出す。その製造権を取得したのが、ボーチャードピストルの生産で有名になるLudwig Loewe&Company(ルドウィック・ローベ)だ。マキシム ガン カンパニーとの間で7年間の生産契約が締結され、1994年に製造が始まった。
 1897年にルドウィック・ローベはDWM (Deutsche Waffen-und Munitionsfabriken:ドイツ兵器弾薬製造会社)に吸収されたため、ドイツ海軍向けマキシムマシンガンの製造はDWMが引き継いだ。
 最初にルドウィック・ローベがマキシムとの間で結んだ製造ライセンスは1899年に失効したが、DWMはそれを更新し、製造を継続している。そしてこの年、Gewehrprüfkommission(ドイツ小銃委員会:GPK)はマキシムマシンガンの陸軍における採用を決めた。まずはMG 99を採用、これが改良されてMG 01に発展する。
MG 01は主にドイツの植民地軍によって使用されたが、大きくて重いため、少人数での移動は困難を極めた。そのため軽量化したMG 08が登場する。この時、水冷式ウォータージャケットを小型化し、車輪の代わりに橇(ソリ)型マウント“Schlitten(シュリテン) 08”を採用している。
 通常はMG 08と呼ばれるが、正確にはs.M.G. 08(schweres Maschinen Gewehr 08)で、その意味は重機関銃08型だ。ドイツはこれをDWMとKönigliche Gewehr- und Munitionsfabrikk(シュパンダウ造兵廠)で製造、第一次大戦が始まる時点でドイツ軍は約4,000挺のMG 08を保有していた。
 そしてドイツは、この戦争が終結する1918年までに約7万挺ものMG 08を量産、連合軍に多大な損害を与えている。しかし、軽量化されたとはいえ、MG 08は依然として重かった。銃本体で26.5㎏あり、ウォータージャケットが4㎏、そしてソリマウントが38.5㎏と合計69㎏もある。戦闘部隊と共に前進、移動は困難を極めることから、その用途はあくまでも拠点防御兵器に留まった。
 この戦争の初期段階で、ドイツ軍はイギリス軍のルイスマシンガン、またロシア軍の使用するデンマーク製マドセンマシンガンを鹵獲、その軽量さがマシンガンの運用に機動性をもたらすことを強く認識した。マドセン モデル1903は約9㎏であり、ルイスマシンガンは約13㎏だ。
 この時点でドイツでも軽量なマシンガンは複数作られていた。しかし、ドイツ軍は武装の統一化にこだわり、MG 08の小型軽量化を図る方針が打ち出された。

 

汎用機関銃プログラム

 マシンガン軽量化に向けた最初の試みは、ドイツ小銃委員会の主導の元で開発されたI.M.G. 08/15だ。最初の“I”は“leicht”(軽量)を意味する。レシーバーの無駄な部分を無くし、ウォータージャケットの容量を約25%削減、従来のスペードグリップを止めて、通常のトリガーとピストルグリップ、ショルダーストックを装着した。またそり型マウントではなくコンパクトな二脚を装備している。弾薬は銃の右側にベルトコンテナを設け、ここへ布製ベルトに収められた100発の7.92mm弾を収納する。それでもIMG 08/15の重量はバイポッド込みの銃本体が約17.8㎏、ウォータージャケットが約3kgとなり、合計すると20㎏を超えていた。

 そしてこの時期にEinheitsmaschinengewehr(アインハイツマシーネンゲヴェア―:英語にするとUniversal Machinegun:汎用機関銃)プログラムが開始され、このIMG 08/15を発展改良して、様々用途に用いられるマシンガンとする検討が始まっている。その結果、第一次大戦終結の少し前に改良型であるIMG 08/18が少数作られた。これは水冷式から空冷式に置き換えたもので、バイポッド込みの本体重量は14.5㎏となっている。

 

ベルクマンMG 15

 20世紀初頭のドイツにおけるマシンガン開発は、民間兵器製造会社であるBergmann Industriewerke(ベルクマン)でも、同社に勤務するLouis Schmeisser(ルイス・シュマイサー:1948-1914)によっておこなわれた。
 このマシンガンは、バレルに装着されたロッキングウェッジが垂直方向に動くことで、ロック解除をおこなうショートリコイルオペレーテッドで、1901年に発表されている。これはマキシムマシンガンを原型とするMG 01と比べると小型であったが、この時点においては水冷式であり、決して軽量さを目指したものではない。
 いずれにしても、ドイツ軍はこの銃にほとんど関心を示さなかった。すでにMG 99を経て、MG 01を装備する方向が定められていたことが、ベルクマンのマシンガンが選考の対象にならなかった要因のひとつであったと推測する。
 このシュマイサーによるベルクマンマシンガンは諸外国に対しても売り込みが図られたが、これを採用する国はなかった。しかしながら、ルイス・シュマイサーのマシンガンは、プッシュスルー型の金属カートリッジリンクを採用していた。このことは注目すべきだろう。当時のマキシムマシンガンは布製のカートリッジベルトを使用していたが、シュマイサーの金属ベルト方式の方が信頼性は大幅に高い。
 その後にシュマイサーはベルクマンを退職し、Dreyse(ドライゼ)に転職している。ベルクマンでルイス・シュマイサーの後を引き継いだのが、ルイスの息子であるHugo Schmeisser(フーゴ・シュマイサー)だ。フーゴは父親の開発したマシンガンの改良をおこない、モデル1910を完成させたが、これもまた注目されることはなかった。唯一、中華民国で少数が採用されたに過ぎない。
 その更なる改良型がモデル1915だ。これは軍用であるMG 08のそり型銃架や布製ベルトにも適合するようにしたもので、ドイツ軍に対して既存のMG 08と併用することを提案している。
 結果的にはこれも採用されなかったが、この時点でドイツ軍の中で軽量マシンガンの要求が生まれていたため、フーゴ・シュマイサーは急遽このモデル1915を軽量マシンガンに作り替えて再提案した。具体的には水冷ジャケットを無くして空冷式とし、ピストルグリップやショルダーストックを装着したものだ。
 軽量なマシンガンを必要としていたドイツ軍は、これをMG 15ライトマシンガンとして採用し、MG 08/15の不足を補う形で使用した。
 MG 15ライトマシンガンは、全長1,120mm、重量12.9㎏で、これはマキシムベースのMG 08/15の1,445mm、20.8㎏より大幅に小型軽量となっている。少なくとも軽量マシンガンとして見た場合、明らかにベルクマンが優れていたのだ。
 ベルクマンMG 15ライトマシンガンにも欠点があった。空冷式ゆえ、連続射撃を継続するとバレルはどんどん高温化していく。そのため、、連続射撃の上限は安全を見越して300発までとされた。もちろんクイックチェンジバレルシステムを採用しているため、これは大きな問題ではない。
 このベルクマンMG15は当初、オープンボルトで作動していたが、途中で改良が加えられ、クローズドボルトとなっている。その前者はベルクマンMG 15 a.A.(alter Art:旧型)で、後者はベルクマンMG15 n.A.(neue Art:新型)と呼ばれた。
 ドイツ軍は戦争終結までに使用したMG 15は旧型、新型合わせてもわずか約5,000挺に留まる。これはドイツ軍があくまでもMG 08/15を主力とし、MG 15を補助的なものとして扱ったからだ。