2026/01/14
無可動実銃に見る20世紀の小火器203 ヘッケラー&コッホMP5A2 1976年製

MP5が完成したのは1966年のことだ。この銃はそれから11年後、大きな注目を浴び、サブマシンガンのディファクトスタンダードになっていく。ここでは、MP5が誕生するまでについて、創業者3人の経歴や当時のドイツの状況を含めて詳しく解説したい。
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60年近い歴史があるMP5は製造時期で、ハンドガード、トリガーハウジンググループ、セイフティセレクター等の仕様が大きく異なる。
ヘッケラー&コッホを創業した3人
Edmund Heckler(エドモーント・ヘッケラー:1906-1960)は、1906年2月2日、トゥットリンゲンに生まれた。父のキリアン・ヘッケラーは1914年(第一次大戦勃発の年)にOberndorf am Neckar(オーベルンドルフ・アム・ネッカー)の市長となった人物で、戦後、エドモーントはその町にある最大の産業であるMauser(マウザー)Werke AGで見習い工として働いた後、1925年にヴュルテンベルク州立高等機械工学学校に入学した。
卒業後はマウザーに戻り、工場で勤務した後、1934年にドイツ最大の兵器メーカーの一つであるHugo Schneider AG(ヒューゴ・シュナイダーAG:HASAG)に転職している。ここでPanzerfaust(パンツァーファウスト)の開発に関わった。
HASAGの上級技師として働いていたヘッケラーは、その後にHASAGの管理職の一員となり、ライプツィヒ、ベルリン、タウハ、アルテンブルクに支社工場を設立、1940年にタウハ第一工場の所長に就任する。
後にヘッケラー&コッホ(英語読みではヘッケラー&コック)GmbHの設立の中心人物となったエドモーント・ヘッケラーの第二次大戦中の行動は、戦後長い間、問題視されることはなかったが、2020年9月、ヘッケラーが戦争犯罪者であるという一部報道があり、大きな注目を集めた。
第二次大戦中、ヘッケラーは、このHASAGのタウハ工場で1,400人以上の強制収容者(ユダヤ人、ロマ人など強制収容所の人々)を劣悪な環境下で働かせ、その多くが死亡したというのだ。ドイツが敗北した後、タウハ市長からの強制収容者に対する保護支援要請を受けたが、ヘッケラーはHASAGにはその責務を負う義務はないと拒否したともその報道は伝えている。
この記事はその後、ドイツの企業史研究を推進するための国際的に認められた学術機関Gesellschaft für Unternehmensgeschichte (GUG:経営史学会)による約3年に及ぶ調査で完全に否定され、事実ではないことが確認された。
ヘッケラーは1939年にナチス(国民社会主義ドイツ労働者党:NSDAP)に入党を申請、1940年に入党している。しかし、入念な調査の結果、これはあくまでもキャリア志向(いわゆる出世欲)によるもので、彼自身は純然たるナチスの信奉者ではなく、自らの専門知識を生かして高い地位を得るための手段であったと判断された。聞こえは悪いが、いわゆる付和雷同、大勢順応主義者だ。そして報道されたような強制収容者を死に至らしめるようなことを直接おこなった事実もないと結論付けている。
なにしろヘッケラーの管理したタウハ第一工場には強制収容者はいなかった。この第一工場はパンツァーファウストの製造工場ではなく、弾薬製造工場だった。HASAGのポーランド工場では、強制収容者に対し、報道されたような悲惨な状況が展開されていたのは事実らしい。
ヘッケラーはHASAGを経営管理する役員ではなく、28名で構成された第二階層の管理者のひとりであった。したがってポーランドの工場でおこなわれている事の実態を知っていた可能性はあるが、“それを止めるような力は持っていなかった”とGUGの調査研究は結論付けている。
敗戦後、フランス占領地域のSchwarzwald(シュヴァルツヴァルト)に移り住んだヘッケラーは、Denazification(デナジフィケーション:非ナチ化)の過程においても、戦争犯罪者として裁かれることはなかった。その後にヘッケラーは、かつて暮らしていたオーベルンドルフ・アムネッカーの町に戻り、1948年にIngenieurbüro Heckler(インゲニウールビューロ ヘッケラー:ヘッケラー技術者事務所)と呼ばれる個人事務所を開設した。機械部品加工および各種設計を請け負うことが、その主な業務だ。
Theodor Koch(テオドール・コッホ:1905-1976)は、ツフェンハウゼンで生まれ、精密機械工の見習いとして働いた後、1924年にエスリンゲンのヴュルテンベルク州立高等機械工学学校に入学、1926年に卒業後はオーベルンドルフ・アムネッカーのマウザーで技術者として勤務した。おこなっていたのは工場設備の維持管理だったらしい。
コッホは第二次大戦中、ナチスのFördermitglied(フェルダーミットグリート:賛助会員)であったらしい。これは寄付をおこなうだけで活動はしない支援者だ。当時、圧倒的な権力を持って国を率いていたナチスに対し、このような形で支援することは、当時のドイツで生活する国民にとって、自分の地位を守る上ではごく一般的なことだったのだと思われる。
マウザーの工場では強制労働者を使っていた。ここでいう強制労働者と強制収容者は全く異なる。第二次大戦中、Zwangsarbeiter(ツヴァングスアルバイター:強制労働者)はドイツが占領下のヨーロッパ諸国や東欧諸国(ポーランド、ソ連、ウクライナなど)から動員し、過酷な労働に従事させた人々を指し、彼らは収容所で隔離生活を送り、その中には飢えや過酷な労働で命を落とした人々も数多くいた。一方、KZ-Häftlinge(カーツェット・ヘフトリンゲ:強制収容者)は、ナチスドイツの強制収容所(Konzentrationslager:コンツェントラツィオーンスラーガー:KZ)に収監されていたHäftlinge(囚人)を意味する。当初、ナチスの政治的敵対者がこれに相当していたが、その後、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)、同性愛者など、ナチスにとって好ましくない存在だと位置づけられた人々がこれに加えられていった。ナチスは彼らを処刑していくと同時に、労働を通じた絶滅(Vernichtung durch Arbeit)を強いた。HASAGのポーランド工場ではこれが実行されていたのだ。
マウザーは多数の強制労働者を使って生産をおこなったが、強制収容者は使っていなかった。コッホは1944年にマウザーの主任技師となり、部門長としてより大きな責務を負うようになったが、戦争責任に問われるような事実は確認されていない。従って戦後の非ナチ化の過程でコッホが裁かれることはなかった。そんなコッホは、1949年にヘッケラーの事務所に所属している。
Alexius Wilhelm Seidel (アレクシオス・ヴィルヘルム・ザイデル:1909-1989)は、通常Alex Seidel(アレックス・ザイデル)として知られている。ザイデルは1909年にマウザーで熟練工として働くパウル・ザイデルの息子として生まれた。そして1927年から28年にかけてマウザーで見習い工として働き、その後にヴュルテンベルク州立高等機械工学学校で機械工学を学んだ。1932年に卒業するとマウザーに戻り、ドイツの敗戦までここで銃器開発に従事している。
マウザーにおけるザイデル最大の業績は、中型ダブルアクションオートマチックピストルHScの開発だ。他には戦争末期、省力化ピストルとしてVolkspistole(フォルクスピストーレ)を開発したが、これは量産されていない。
ザイデルは開発技術者であり、マウザーで働く過程において、工場の強制労働者との接点はあったかもしれないが、その労働を強いる立場にはなかったとされている。
ザイデルが働いていたマウザーは、戦争終結後にその工場所在地であるオーベルンドルフ・アムネッカーを占領するフランス軍の管理下に入った。操業を止めていたマウザーは、フランスの判断によりすぐに再稼働する。製造したのは、フランス軍向けのKar98kとP38だ。1943年に製造を終えていたP08も再生産がおこなわれた。
第二次大戦直後にフランスは、独立を求める植民地を手放すことを拒み、1946年よりインドシナ半島で独立戦争に直面した。大量の武器がすぐに必要で、そのためにマウザーを活用したわけだ。しかし、当面の必要数を1946年6月までに生産し終えると、フランス軍はマウザーの工場の約60%を破壊した。
戦後、ザイデルが何をしていたのかは、残念ながらよくわからない。しかし、ザイデルも1949年にヘッケラーのデザイン事務所に参加した。もう一人、マウザーで営業担当だったErich Unterkofler(エーリヒ・ウンターコフラー)という人物がおり、この4名が中心となって、1949年12月28日、Heckler & Koch GmbH(ヘッケラー ウント コッホ ゲーエムベーハー:有限会社)が設立された。
ヘッケラー&コッホの創業と銃器メーカーとしても基礎を築く上において、重要な役割を担ったエドモーント・ヘッケラーに対して、彼が戦争犯罪者であったという2020年の報道を受け、既に述べた通り、国際的な学術機関であるGUGは3年に及ぶ調査を実施した。その際、創業に関わったコッホとザイデルに対しても徹底的に調査がおこなわれたが、彼らが戦争犯罪者であるという証拠は一切見つからなかった。戦後におこなわれた非ナチ化の過程においても、たくさんの裁判が実施されたが、それら膨大な記録を調べても、この3人の名前は一切登場していないということだ。
彼ら3人はナチスの支配した戦前戦中のドイツにおいて、その体制の中で生活し、戦争に必要な武器製造開発に従事した。それによって地位を得ていたのは事実ではあるが、それを“悪”、“犯罪行為”というのであれば、あの時代を生きたドイツ人の多くが罪に問われてしまう。2020年に起きた“ヘッケラー&コッホは戦争犯罪者が興した企業である”という報道は、ドイツを代表する銃器メーカーに対し、不当にその評価を落とそうとした恣意的なものであったというわけだ。


